代表 西田耕一の想い
「魚屋の子」が、今は私の誇りです。
幼い頃の私は、魚屋の子であることが恥ずかしくて、人に知られないようにしていました。
その私が今、魚信の二代目として、日本の食文化を未来へつなぎたいと想っています。
少しだけ、お時間ください。
始まりは、家族の暮らしを守るためでした。
魚信の初代は、母・乃武子です。
「魚信」の「信」には、母の名前「のぶこ」が込められています。
始まりは、家族の暮らしを守るためでした。
父の事業が、納入先の計画倒産のあおりを受け、続けることが難しくなったとき、母が始めたのが、鮮魚店でした。
なぜ、魚屋だったのか。
母の母、私の祖母もまた、家族を支えるために、リヤカーで魚の行商をしていたからです。
母は幼い頃、その行商を手伝っていました。
魚を売り、家族を養う。
母は、その仕事を幼い頃から知っていたのです。
そして、自分の家族を支えなければならなくなったとき、母もまた、魚を売る道を選びました。
祖母から母へ。
魚を売る仕事が、私たち家族の暮らしを支えてくれました。
「家が魚屋だと、知られたくない」
でも、幼い私は、その仕事の尊さを知りませんでした。
「家が魚屋だと、知られたくない」
家族のために働く母の姿を、誇りに思うことができませんでした。
私が小学校に上がる頃、母は魚屋を続けながら、自宅の二階で宴会のお客様を迎えるようになりました。
それが評判になり、料理を楽しみに来てくださる方が増えていきました。
一方で、大手の進出によって、スーパーの中の魚屋は、次第に商売が難しくなっていきました。
そして、魚屋を閉じ、この稲熊の地で、料理屋「魚信」として新たな一歩を踏み出しました。
魚信の、第二の創業です。
あれから、およそ四十年。
今もこうして暖簾を掲げられるのは、魚信を選び、足を運んでくださった地域の皆様のおかげです。
本当に、ありがとうございます。
日本の食文化を、未来へつなぐ。
この四十年で、日本の食卓も大きく変わりました。
魚やご飯を囲む食卓に、肉やパンなど、さまざまな選択肢が増えました。
私も、肉を食べます。
パンも食べます。
どちらも、おいしいです。
ただ、その豊かさの中で、私たちが長く受け継いできた味や、それを作る人の仕事まで、失われてしまっていいのだろうか。
私は、そう思うんです。
田んぼで米を育て、海から魚をいただき、大豆から豆腐や味噌を作る。
身近にあるものを生かし、手間をかけ、工夫を重ねて、命をつないできた食文化があります。
海外の食材にも支えられている今だからこそ、日本で育て、獲り、作る営みを、大切にしていきたい。
昔の食生活に、すべて戻したいわけではありません。
私の想いは、
日本の食文化を、未来へつなぐことです。
魚を食べて、「おいしいね」と笑う子どもがいる。
炊きたてのご飯を囲んで、家族の会話が生まれる。
出来たての豆腐をひと口食べて、「大豆って、こんなに甘いんだ」と驚く。
そんな食卓を、これからの子どもたちにも残したいんです。
作り続けることで、つなぎたい味があります。
廃業した原田豆腐店を再建し、魚信で豆腐作りを受け継いだのも、その想いからでした。
今、岡崎市内で豆腐を製造・販売しているのは、私たちの原田豆腐だけになりました。
作る人がいなくなれば、その味も、技も、いつか途絶えてしまいます。
だから、私たちの手で作り続けたい。
おいしさを知っていただくことで、次へつないでいきたいと思っています。
昔は恥ずかしかった「魚屋の子」が、今は私の誇りです。
祖母と母。
二人の女性が、家族を守るために魚でつないでくれた命。
その先に、今の私がいます。
昔は恥ずかしかった「魚屋の子」であることが、今は、私の誇りです。
母たちが魚で家族を支えてくれたように、私は魚信の料理を通して、家族が集まり、笑顔になる時間を支えたい。
そして、その食卓にある日本の味を、未来へ届けたいと思っています。
皆様の一回のお食事が、この味を次へつなぐ力になります。
もし、この想い、魚信の仕事に、共感していただけたら嬉しいです。
その応援は、ご自宅で魚を食べること、魚信で食事を楽しんでいただくことから始まります。
大切な方と共に、一緒に食卓を囲んでいただくこと。
「おいしかったよ」
「また来ようね」
そう言っていただけることが、私たちの励みになり、魚を仕入れ、豆腐を作り、この仕事を続けていく力になります。
皆様の一回のお食事が、この味を次へつなぐ力になります。
私も二代目として、さらに腕を磨き、魚信に来てよかったと思っていただけるよう、日々、精進してまいります。
家族を支えるために始まった、小さな魚屋。
その想いを受け継ぎ、今度は私が、食の喜びを未来へつないでいきます。
これからも魚信を、どうぞよろしくお願いいたします。
魚信代表
二代目 西田耕一
